現存天守(げんそんてんしゅ)とは、日本の城の天守のうち、江戸時代またはそれ以前に建設され、現代まで保存されている天守のことを現存天守と言います。また、これらの天守は、貴重な歴史的文化遺産として国により「国宝」や「重要文化財」の指定を受けています。
現存天守は12城しかありません。また、天守閣と言う言葉がよく使われますが、天守と天守閣は同義語ですが、天守と呼ぶのが正しいようです。(登坂勇)
独立式層塔型3重3階の天守[2]で、現在の現存天守の中では日本最北かつ最東端の地にある。1627年(寛永4年)に落雷により天守を焼失した後、1810年(文化7年)に幕府にはばかって名目上櫓として3重3階層塔型構造で新築したもので、「御三階櫓」と名付けられた。城外側にあたる東・南面には切妻破風を2重に重ねて出窓や出張を設け、窓の代わりに矢狭間を用いた構えであるが、城内側にあたる西・北面には天守建築の特徴の一つである破風がなく、連続した窓があけられている。また、凍結に対応するために鯱や屋根は銅瓦(木型の上に銅板を貼り付けているもの)が用いられている。
層塔型5重6階の大天守と3重4階の乾小天守、2重の辰巳附櫓と月見櫓を付属させた複合連結式の天守で、「現存12天守」の中では唯一平城の天守である。破風が少なく、黒塗りの下見板がめぐらされているため、漆黒で簡素な外観であるが、複合連結式であるため見る角度によって異なる印象の意匠を見ることができる。
複合式望楼型3重4階地下2階の天守で、大入母屋屋根の建築の上に外廻縁側を突出させた小規模な望楼を上げた形状は丸岡城天守と同様である。この天守は最上階に実用的な外廻縁と高欄が付けられ、華頭窓も付けられているが、実際は窓ではなく装飾である。小屋裏となる3階にも唐破風出窓を設けるなどの採光が考慮されている。
複合式望楼型3重4階地下2階の天守で、大入母屋屋根の建築の上に外廻縁側を突出させた小規模な望楼を上げた形状は丸岡城天守と同様である。この天守は最上階に実用的な外廻縁と高欄が付けられ、華頭窓も付けられているが、実際は窓ではなく装飾である。小屋裏となる3階にも唐破風出窓を設けるなどの採光が考慮されている。
複合式望楼型3重3階地下1階の天守で、幕府の普請(天下普請)による。飾り外廻縁と高欄を持ち、切妻破風、入母屋破風、千鳥破風、唐破風が組み合った、複雑な構造美と輪郭の荘厳な景観の意匠となっている。また、文禄・慶長の役の際に朝鮮半島に造られた倭城にも見られる「登り石垣(竪石垣)」や大名庭園「玄宮園」も現存する。
望楼型5重6階地下1階の大天守と3重の小天守3基を2重の多聞櫓で連結させた連立式の天守で、日本国内最大の現存天守である。白漆喰で塗られた白亜の外壁と屋根や破風の構成美の上、見る方向により異なった趣となる連立式であり、また桃山後期から江戸初期当時の作事(建築)の技を現代に伝える代表的な城郭と言われている。また、「現存12天守」で唯一、天守内に神社(長壁神社)と厠がある。
複合式望楼型5重6階の天守で、内部に井戸がある唯一の現存天守。外装は黒い下見板張りで、最上階には内廻縁と高欄を有し、鯱は木造銅板張である。2階に付けられた石落としなどの装備の点でも極めて実戦的な造りであり、漆黒の武骨荘重な意匠となっている。
渡櫓は失ってはいるが、複合式層塔型2重2階の天守で、現存天守の中では最も規模が小さい(高さ約11メートル)。現存建築の残る山城の遺構としては、備中松山城の例のみである。天守1階に囲炉裏が現存し、外観は、唐破風出窓や最上階の出格子の窓などにより重厚な意匠を醸し出している。
独立式層塔型3重3階の天守[2]で、高さは約14.5メートルと弘前城天守(高さ約14.4メートル)の次に低い三重天守であるが、総高66メートルある総石垣の城の頂上に建てられている。一国一城令により廃城になったが、1660年(万治3年)に「御三階櫓」として建造された。最上重の屋根は平側面(南北面)に入母屋屋根の妻側を向け2重目の北面に向唐破風を一つ付けた外観は建物を大きく見せるためと見た目を重視したためである。
層塔型3重3階地下1階の大天守と2重の小天守1基、2重櫓2基を多聞櫓で連結した連立式の天守で、平山城の比高において最も高い位置にある現存天守(標高約160メートル)である。天守丸の上に築かれた構造の天守は、黒船来航の翌年、将軍徳川家とゆかりのある松平家により復興されたもので、「現存12天守」で唯一、築城主として「葵の御紋」が付されており、また日本では最も新しい日本式城郭建築の天守である。1重・2重を下見板張り、3重目は白漆喰の塗られた外壁に飾りの外廻縁と高欄が付けられている。大天守各階は天井が張られ「床の間」が設けられている。また、「登り石垣(竪石垣)」や登城のための「城山索道」がある。また、愛媛県は現存天守が複数(2ヶ所)ある唯一の都道府県である。
独立式層塔型3重3階の天守で、日本最南・最西端にある現存天守。白漆喰の塗られた外壁や破風と屋根・青銅製の鯱などの調和がよく取れた意匠である。また、「現存12天守」の中で、唯一、城内に障子建具が残っている。大名庭園である「天赦園」も現存している。
独立式望楼型4重6階の天守で、天守台がなく本丸御殿(現存)に入口がある現存天守。1747年(延久4年)に再建されたものであるが白漆喰で塗られた外壁に、2重目の大入母屋や千鳥破風、軒唐破風、実用的な外廻縁と擬宝珠高欄や大きな引戸が付けられた古式で開放的な意匠である。最上重屋根大棟上と2重目大入母屋屋根の大棟上には青銅製の鯱があげられている。